2012年4月23日月曜日

フランス料理の歴史 ~ ジャン=アンテルム・ブリヤ=サヴァラン

Jean-anthelme Brillat-Savarin

ジャン=アンテルム・ブリヤ=サヴァラン

(1755-1826)

1755年4月1日生まれアン県ブレ出身。

1826年2月2日パリで亡くなった。

フランスの法律家、政治家、音楽家。



父親 マルク=アンテルム・ブリヤ

国王の代訴人を務めたピュジュー=アン=ピュジェの領主。



サヴァランの姓を付け加えた理由としては、大叔母サヴァランが、名前を継いでくれれば相続人にすると要求した。



代議員に選ばれて、ブレ町長を務めたことから、故郷での人々からの信頼が厚かったことがうかがえる。



フランス革命によりスイスからアメリカへ、亡命生活を経験し、

フランスに戻ってから、1800年には判事に任命された。

彼は教養人であり、正真正銘の食通であった。



1825年、著書『味覚の生理学』を出版したことによって、偉大な美食家としての地位についたのだった。

2012年4月10日火曜日

フランス料理の歴史 ~1000件を超えるレストラン

1000件を超えるレストラン



次々に料理人達がレストランを開業して、大金持ちとなっていった。

1789年までに100件無かったが、1803年には、5、6倍になっていると、

「食通年鑑」の創刊号で書かれたそうです。

50年後、レストランの数が1400件以上にのぼるという調査結果がでたそうです。





食通年鑑が発行される



革命による新興金持ちが登場してくると、レストランが

成金達の社交の場として利用されるようになりました。

ただ問題が有りました。元々、貴族ではないので、

貴族社会の美食文化や、料理、ワインについての常識に通じておらず、

学ぶ欲求が出ました。



よって、グリモ・ドゥ・ラ・レニエールとブリヤ=サヴァランが

「食通年鑑」を5年間続けて発行した。

発売と同時に即完売になり、何度も再販されるような大成功を収めた。

2012年3月22日木曜日

フランス料理の歴史 ~パリ、最初のカフェ。そして、流行。

フランス料理の歴史 ~パリ、最初のカフェ。そして、流行。

カフェ café (仏) 発音 kafe カフェ *パリ周辺で キャフェ 
①コーヒー 
②コーヒーなどを出す飲食店
喫茶したり、食事したり、新聞を読んだり、読書したり、談笑したりする社交場となっている。
世界各国、コーヒーの提供場所のコーヒー・ハウス、カフェ、カフェーなどは近代、知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集う場所として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。

フランチェスコ・カペッリ(Francesco Capelli)通称「プロコピオ」(Procopio)
シチリア、パレルモ出身

1674年ルイ14世、17世紀末 、彼は、貴族と才人達のための場所として、  パリ最初のカフェ をトゥールノン通りカフェ・プロコープ」を開いた。
10年後、1684年フォセ・サン・ジェルマン通り(現在のランシエンヌ・コメディ通り)エトワール球技場の向かいに店を移転させました。


この頃は、殆ど家に閉じ込められていた女性達がこのカフェ「カフェ・プロコープ」への出入りだけ認められていた。この時代においては非常に斬新なことである。 カフェには女性客がいるということによって、パリ中の注目の場所となっていった。


また、このカフェと言う場所で出されるものも最先端をいっている。
今でこそ、ごく当たり前ではあるが、当時としては珍しかったり、流行の飲み物だったりする。
コーヒー 、紅茶、チョコレート、 甘いリキュール、 シロップ、 菓子、果物の砂糖漬け、冷たい飲み物、ソルベ sorbet(仏語)(英語シャーベット)が出されていた。
*当時、ソルベのスペルはアラビア語のshorbetと書かれていた。



電気も冷凍・冷蔵庫も無い時代に氷やシャーベットを出していたことは驚きです。
ラ・カンティーヌという人物がその方法を解説している。
氷に塩を加えて、上にリキュールをいれた容器を置くと氷らせることができる。
この方法で、オフィシエ・ド・ブーシュ(Officier de bouche   食膳係)は、冷菓、人工雪を真夏でも作り出した。
*貯蔵庫「グラシエール」と呼ばれるもの。
真冬に、深い大きな穴の中に氷をしまって石、土で覆い塞いでおくと真夏まで貯蔵できる。



カフェ成功の理由は?

プロコピオ。彼にはインテリアと優雅なセンスがあり、
店の大理石の丸テーブル 、水晶のシャンデリア、大鏡と豪華さが
エリート達を虜にしておりました。
*ルイ14世がフランスのリュイリーに鏡の工場を開いて大鏡を生産しょうとしていました。
 とてもアイデアマンだったと思われる。
最先端の流行の飲み物、食べ物を出していた。
カフェの店内にニュースを貼り出したことによって、
話題、情報交換、議論が盛んに行われる場所となっていった。



「カフェ・プロコープ」 の近くに劇場があり、芝居終了後には、作家、俳優が、芝居の観客、貴族、ブルジョワの金持ち達で賑わいを見せていた。
カフェは、パリ中の熱狂と化していき、1721年には、パリで300軒近い多様なカフェがあった。
18世紀末、総裁政治時代は2000件を超えた。


「カフェ・プロコープ」 は名実ともに、初の文学カフェとなり、
文学・思想家達の集いの場であった。
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、モンテスキュー、ルソー、モンマルテルなどが来店していた。

<人物>
ヴォルテール(Voltaire, 1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家。
ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot, 1713年10月5日 - 1784年7月31日)は、フランスの啓蒙思想家・作家。
ジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert、1717年11月16日 - 1783年10月29日)は、フランスの数学者・物理学者・哲学者。百科全書派知識人の中心者。
シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689年1月18日 - 1755年2月10日)は、啓蒙期のフランスの哲学者・政治思想家である。
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。


文学カフェに於いて、彼らが情報、意見交換をすることによって、
世界について考え、君主制を倒すことになる革命思想を芽生えさせることとなっていきました。
*1702年、プロコープの所有は、ドゥビソン氏に移り、店名はシンボルとして名を残す事となりました。




大革命時代になると、ダントラン、マラー、ルジャンドル、デムーラン、ファーブル・デグランティーヌなどがカフェの常連客としていた。
<人物>
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)はフランスの革命指導者。医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。
アドリアン=マリ・ルジャンドル(Adrien-Marie Legendre, 1752年9月18日 - 1833年1月10日)はフランスの数学者。統計学、数論、代数学、解析学で様々な功績を残した。
カミーユ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)は革命派のジャーナリスト



1721年、モンテスキューがこう残しているそうです。
「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。
なぜなら、ここに集まっている人々は頭に酷く血が上っている。
居酒屋で酔っ払わさせておくほうがずっとましだ。
少なくても、酒に酔っ払っても自分にしか害を及ぼさない。
しかし、カフェで議論に酔っぱらった連中は、
国の将来にとって危険なものとなる。」


フランス料理の歴史 ~レストランの始まり

旧体制下では、レストランと言えるある限りの様々な調理法で作った料理を食べさせる店はなかった。


数多くのオーベルジュ、タヴェルヌがあり、一般大衆の客層に限られていた。


オーベルジュ Auberge 宿屋兼料理屋
タヴェルヌ Taverne 居酒屋、飲み屋、料理屋
カバレ Cabaret 居酒屋 酒類を置きその場で飲ませる。時たま食事もさせる場所。
19世紀までは、あまりいい意味で使われていなかったようです。
一般庶民の社交場で、作家、詩人の集まる場所でもあった。
①キャバレー、ナイトクラブ
②居酒屋(昔19世紀頃)


当時は、ギルドが組織され食の仕事を管理されていた。

職人、商人の組合が強力に働き、ギルド内部の規制を持って、類似の商売の競合を法律で禁じて、自分たちの利益を守る。
Boucher ブーシェ 牛、仔牛、羊を屠殺して売れる権利あり。
Tripier トリピエ 臓物を売る。
Chairecuitier シェルキュイティエ 豚、そのほかの肉をパテ、ソーセージーハム等の加工品にして売れる。豚の屠殺権利が無い。
Traiteur トレトゥール あらゆる肉の種類をラグーという調理法で、ソースと一緒に出すことができる。
Rôtisseur ロティスール ロティした肉はどんな肉でも売っていい。ラグーではダメ。
*ロティ 調理方法で、ローストの事。オーブンを使って熱風で蒸し焼きにしたもの。
*ラグー 調理方法で、肉の煮込み料理。煮汁はソースとして使える。



2012年2月29日水曜日

フランス料理の歴史 ~国王の給仕人

国王に料理を出すのに、
軍隊をモデルにされた組織で行われていた。




国王の食事担当官吏

侍従部長官 (最高責任者)     Grand Maître de la Maison du Roi

給仕長       Maître d'Hôtel

パン職人長          Grand Panetier

 飲物係長       Grand Échanson

肉切り分け長        Grand Écuyer Tranchant

肉切り分け係        Écuyer de Tranchant

給仕侍従      Gentilshommes Servants

料理長                 Écuyer de Cuisine

食膳係                 Officier de Cuisine

召使い                 Laquais 


*これらは全て貴族たちで構成されていた。

貴族にとって、最高の栄誉であり、王の側で控えられることが一種の権力であった。

2012年2月21日火曜日

フランス料理の歴史 ~じゃがいも伝道師。不屈の精神の持ち主だ。

Antoine-Auguste Parmentier(1739-1813)



アントワーヌ=オーギュスト・パルマンティエ




「パパス」または「パタート」の名で呼ばれていた

南アフリカ原産のじゃがいもは、

他国に比べてフランスでは普及が遅れていた。



初めに1535年頃、スペインに伝わって、

イタリア、スイス、ドイツに伝わっていった。

しかし、フランスで受け入れられなかった。



じゃがいもの形が嫌われたり、味が薄く単品では好まれなかった。

庶民には、肉も、塩も、油も買うことが難しく

当時の一般的調理方法がフライが主流で

食の習慣を変えることが難しく、障害となっていた。



ちょうど飢餓が慢性化していた時で貧しい庶民にはパンも買えない有様だった。

その代替え食としてパルマンティエは庶民を救うべくじゃがいもの普及に一生を捧げた。



国王ルイ16世よりパリ郊外のサブロンとグルノーブルの土地賜った。

ここにじゃがいもを植えて、昼は大げさに看守の見張りをつけた。

夜にわざと警備を外してじゃがいも泥棒を見ぬふりをした。

国王は、人民の食料として役立つと分かり、

じゃがいもの花束を宴席で飾らせたり、

じゃがいものメニューを作らせ供させたりした。



王の食事を真似するようになって普及し始めた。



じゃがいも伝道師。不屈の精神の持ち主だ。



<パルマンティエの名前の付いた料理>

アッシェ・パルマンティエ(Hachis Parmentier)

フランス家庭料理で、牛挽肉とマッシュポテトの重ね焼き。



ポタージュ・パルマンティエ(Potage Parmentier

じゃがいものクリームスープ