2012年1月31日火曜日

フランス料理の歴史 ~ルネサンス イタリアからフォークが伝わる

イタリアからフォークが伝わる



ヨーロッパ中への文明化の動きが始まったのはイタリア(主に北イタリア)で、多くの影響をもたらした。
イタリアからフランスへの食文化の影響は、料理よりもお菓子、テーブルマナーが強く影響を受けている。


イタリアからもたらされたお菓子作りの技術は、当時の政略結婚により后たちがイタリアからフランスへ行くお供に菓子職人たちを連れていった。
コンフィチュール、ゼリー、マジパン、香料入りパン、ヌガー等の技術が伝わった。


このイタリアの后たちの家は、有名なメディチ家である。
メディチ とは、「医師」、「医学」、「医薬」という意味。
ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として、実質的な支配者として君臨した。
後にトスカーナ大公国の君主になった一族。大富豪。
ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家を支援した。


1533年 カテリーナ・デ・メディチとアンリ2世
1600年 マリーア・デ・メディチとアンリ4世


フォーク、が取り入れられ、一人一人で各自の皿を使うようになる。
杯からグラスに変わった。


食べ物に直接触らないで食事をすることに食文化としての洗練さが現れてゆく。
直接、料理の中を指を突っ込んだり、食器を共有して使ったり、手でも食べていたけれど、自分の皿に取ってからの決まりになっていった。
手を洗う事が決まった。


2012年1月30日月曜日

フランス料理の歴史 ~ルネサンス テーブル用具の変化


ーブル用具の変化





食事用のテーブル・ナイフがイタリアからもたらされて変化が起きた。

以前はテーブル用具で、武器でもある短剣、短刀を使っていた習慣が、この食事用のテーブル・ナイフが登場したことによって廃れた。

一方で、宴会などで行われるデクパージュは続けられており、様式化されていった。貴族の教育の最終指南者として、 デクパージュの専門教授がおり、 当時の貴族の教養として、デクパージュで貴族教育が完了する。

左手は、フォーク、右手は長剣を使い、一切直接に肉を触らないでデクパージュを完了して、人々に振舞う。このことが貴族としての地位にふさわしい振る舞いで、帯刀貴族の一員の証とされた。

後には、デクパージュは職務として専門化してゆき、Écuyer tranchant「エキュイエ・トランシャン」(切り分ける貴族)というデクパージュを行う係の仕事となる。

2012年1月28日土曜日

フランス料理の歴史 ~ルネサンス 個人主義が台頭する


ルネサンス 個人主義が台頭する




食卓に使う器具類の種類が増えて機能が分化が進んだ。

テーブルマナーにも変化が起こる。

ほかの人と同じ杯の酒を飲む、スープ鉢の共用は良くないこととなった。

下品なマナーとして、自分の口にしたものを渡すのは禁止。

人前でのゲップは、よかったのが、次第に下品なこととみなされた。



最初は問題ではなかったことが、

テーブルマナーが定着してゆくに従って細かく正確に決められ、

洗練された形式へとなっていった。



2012年1月26日木曜日

フランス料理の歴史 ~ルネサンスとは? La Renaissance

ルネサンスとは? La Renaiussance

再生を意味するイタリア語の『リナシタ』から派生した。

ギリシアやイタリアといった、政治的にも文化的にも繁栄した国家が中心 。

イタリアは芸術、科学、社会、政治全てにおいて当時は、ヨーロッパの中心地であった。

絵画の世界でレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロが有名。



「礼儀」という言葉が登場。

人間が社会の中でなすべき行動、

外見、自分の見せ方、振る舞いなどすべての処方。

礼儀の目的とは、社会的身分の区別

「階級を上層と下層に識別する事にある」



マナーを心得ていることが上流階級の証と言う認識になってゆく。

このことが、テーブルマナーの発達の基軸となった。

フランス料理の歴史 ~香辛料を入れる意味


大量に使われる香辛料




香辛料は高級な料理に惜しげもなく使って、食べ手の社会的地位、裕福さを表していた。

香辛料は、輸入目的が最初は医療効果があったから。

医学的か消化促進の為か大量に使われた。

ここのところは、はっきりしてない。



カレーは、香辛料の調合したもので、そのひとつずつを見てみると、漢方薬にも使われている材料です。

医食同源と言うくらいですから、無関係ではないでしょう。





ソースに油脂を使わない




これは、味的にソースに油脂を入れることは好まれていなかったようです。

経済的問題はないはずなので、入れない方がよかったのでしょう。




当時の貴族たちの仕事



狩猟か戦争の二つ。

狩猟は、貴族の特権で、他の階級には禁止をされていた。


白鳥、千鳥、孔雀、コウノトリなど大型の野鳥は、調理後、再び羽をつけられて食事の間へ出された。

2012年1月25日水曜日

フランス料理の歴史 ~ ソースはどんなの?


酸味の液体が基本。


酢、ヴェルジュ、レモン・オレンジの果汁など。



ソースには、大量の香辛料を溶かし込んでいる。

香辛料の効いた酸味の液体を、炙り焼きの肉につけてソースとしてた。



生姜、シナモン、丁字、胡椒、ナガコショウ、サフラン、ナツメグ

はちみつ、砂糖も香辛料扱いされていた。



とにかく香辛料が入っていればよかった。



ドレッシングに近いように思う。油脂は使わないが。




2012年1月23日月曜日

フランス料理の歴史 ~ 中世の加熱テクニック

中世では4つの加熱法が使われてた。



  • Rôtir ロティール 炙り焼きすること。 
  • Poche ポシェ 十分な量のお湯で茹でること。 
  • Frire フリール 揚げる 。
  • Braiser ブレゼ 蒸し煮 。





肉は、焼く前に茹でる。




「ヴィアンディエ(食物譜)」のルセットで、肉は火で炙る前に茹でていた。




理由は二つあり、調理技術と、衛生面の利点がある。

肉は、新しいうちに食べないで、

柔らかくする為に熟成目的で、

屠殺後8日から10日吊るして置いておく。

この時、肉の表面には、細菌が繁殖しやすく

ベタつき、味も損ねる。

衛生面でも心配である。





<肉の熟成について>

牛、豚、鶏などの肉は熟成させて食肉とする。


死後硬直中の肉は硬い。自己消化によって肉質が柔らかくうまみが増して風味のある食肉になります。これを熟成と呼びます。牛で死後硬直が約1日で、熟成期間は数日柔らかさを出すために1か月以上長期熟成を行うこともある。鶏は熟成期間が短く新しさが要求されます。



そこで、茹でて匂いを落としてやわらかくし、肉の熟成不足を補う。



冷蔵庫のない時代に、先人が考えた工夫の賜物でしょう。

2012年1月22日日曜日

フランス料理の歴史 ~Taillevent (1310-1395)

Taillevent (1310-1395) 

通称 タイユバン 



Dit Guillame Tirel  ギョーム・ティレル




タイユバン





中世末期に、最初のグランシェフが登場する。



ギョーム・ティレル 通称 タイユバン




当時の料理は口承の伝統にのっとって、親方から見習いに伝えらていた。

タイユバンは、口伝の料理を分類、体系化して、初めて書き残して本にした最初の人物。

彼の功績により14世紀末シャルル6世の食卓にのった

ルセット(Recette レシピ、料理の作り方。料理自体。)を見ることができる。

1310年頃ノルマンディ地方のポン=トーデュメールに生まれ、1395年頃没。

イブリーヌ県のエンヌモンの墓地の埋葬された。

彼が料理人として人生を送りおそらく軍役まで務めたのもフランス王の宮廷。



1326-1346年 ジャンヌ・デヴルーの料理見習いから正料理人。


はじめて歴史に現れるのは1326年、ジャンヌ・デヴルー<Janne d'Evreux>の戴冠式関連の記述である。

その時の彼はあたかも厨房の申し子であるかのようだったという。


1346-1350年 
フィリップ(6世)・ド・ヴァロワ の料理人。

ドフィヌ公の館に入り1355年には料理長になっている。

ドフィヌ公はタイユヴァンにサンジェルマン・アン・レイの家を贈ったとある。


1650-1368年 王太子ノルマンディ公のエキュイエ・デュ・キュイジーヌ(料理長)

1368年から1373年まではシャルル5世に仕えた。

1368-1371年 シャルル6世のメートル・デュ・クー(総料理長)兼メートル・デュ・ギャルニゾン(守衛頭)

最後の職務については、多大な信頼を得ていたかがうかがい知れる。

料理長の範囲を大きく超えて、エシャンソヌリ(飲み物係)、パヌトリエ(パン焼き所)、

フリュイトリ(果物係)まで及び、

さらに、貴金属細工品の保管を任され、祝宴時に陳列された。

パン作り、当時日常茶飯事だった毒殺を防ぐワインの取り扱いを監督した。




タイユヴァンの「ル・ヴィアンディエ(食物譜)」

当時、ヴィアンドという言葉は、現代の肉を意味する言葉ではなく、食品全体を指していた。

ル・ヴィアンディエは「料理書」とでも約すべき表題である。

フランス語で書かれた最初の料理書は、料理の改革、中でも、ソースと香辛料の重要性を説いている。

(当時のフランス語は、数ある多くの王国の一部の国の言葉であり、一部の人々で使われていた。)

哲学者で美食家、フランソワ・ルヴェルはタイユヴァンの事を
「ガストロノミーの分野でキリスト教徒としては最初のスターである。

理論と実践を結びつけ、同時代の料理に自分の刻印を刻み、

半ば伝説的な人物、範とすべき思想家になりえたカレームやゲラールに至る

料理人の永い系譜の最初を飾る人物である」

と書いている。



イユヴァンの集大成以後、フランスでは1

651年、ラ・ヴァレンヌ<La Varenne>による

「フランスの料理人」<Cuisinier francois>の出版まで

料理専門書は出版されていない。




タイユヴァンの名はレストランの名として使われる。



 
  Le Restaurant Taillenevent 

  

フランスの3つ星レストラン 


http://www.taillevent.com/index.php?lang=jp





東京恵比寿のガーデンプレイスのフランス料理店   

タイユヴァン=ロビュション

2004年7月末で閉店

現在、

   Joel Robuchon   ジョエル・ロブション

     http://www.robuchon.jp/ 

2012年1月21日土曜日

フランス料理の歴史 ~ 皿、フォーク、ナプキンもなし。


皿、フォーク、ナプキンもなし。





14世紀までは、フランスでは各人用の皿を使っていなかった。


液体分の多い料理には鉢を使って、二人でひとつも鉢を共用した。

「メナジェ・デュ・パリ」(パリの家政の書)には、

ひとテーブルに16人がつき、「食事には八つの鉢を出した」と書かれている。



流れ出さない料理には、丸く切った厚いパン・トランショワールか、タイヨワールと呼ばれるのが皿の代わりに用意した。テーブルの道具としてナイフとスプーンがあり、フォークはまだない。

殆ど皆自分の指を使って食べた。(手掴み)



ナプキンはまだなく、会食者のほうに長く垂れ下がったテーブルクロスで指をふいてた。

(現代でも、フランス料理のレストランのテーブルクロスの端は長く垂れ下がっている。)



ナイフは、幅広の短刀や短剣で、武器と食器を共用した

。食事用のナイフはまだない。

ローストした丸一頭分の獣肉を、家の主人が長剣で客人の前で

見事な剣捌きを披露しつつ、

「料理を切り分ける。」(デクパージュという。今でも、レストランでは料理を客の目の前で切り分けるサービスがある。)



当時は騎士社会で料理の剣さばきで優れた剣の使い手であることを伺わせる演出方法だった。招いた客人に与えられる最大の栄誉が、料理の切り分けを招いた客人自身にするように奬める事。

2012年1月20日金曜日

フランス料理の歴史 ~フランス料理の原型

フランス料理の原型


現在のフランス料理の原型は、
ルネサンス期のイタリアからやってきたカトリーヌ・ド・メディシス(当時フランスの王であったアンリ2世と婚姻した)と
その専属料理人によってもたらされたと言われ、
当初は粗野であったフランス料理に変革をもたらし、
ブルボン王朝の最盛期に発達した。


それに伴い、ハプスブルク家により
、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。


また、革命以後、宮廷から職を追われた料理人たちが街角でレストランを開き始めたことから、市民の口にも入るようになった。