Jean-anthelme Brillat-Savarin
ジャン=アンテルム・ブリヤ=サヴァラン
(1755-1826)
1755年4月1日生まれアン県ブレ出身。
1826年2月2日パリで亡くなった。
フランスの法律家、政治家、音楽家。
父親 マルク=アンテルム・ブリヤ
国王の代訴人を務めたピュジュー=アン=ピュジェの領主。
サヴァランの姓を付け加えた理由としては、大叔母サヴァランが、名前を継いでくれれば相続人にすると要求した。
代議員に選ばれて、ブレ町長を務めたことから、故郷での人々からの信頼が厚かったことがうかがえる。
フランス革命によりスイスからアメリカへ、亡命生活を経験し、
フランスに戻ってから、1800年には判事に任命された。
彼は教養人であり、正真正銘の食通であった。
1825年、著書『味覚の生理学』を出版したことによって、偉大な美食家としての地位についたのだった。
2012年4月23日月曜日
2012年4月15日日曜日
2012年4月10日火曜日
フランス料理の歴史 ~1000件を超えるレストラン
1000件を超えるレストラン
次々に料理人達がレストランを開業して、大金持ちとなっていった。
1789年までに100件無かったが、1803年には、5、6倍になっていると、
「食通年鑑」の創刊号で書かれたそうです。
50年後、レストランの数が1400件以上にのぼるという調査結果がでたそうです。
食通年鑑が発行される
革命による新興金持ちが登場してくると、レストランが
成金達の社交の場として利用されるようになりました。
ただ問題が有りました。元々、貴族ではないので、
貴族社会の美食文化や、料理、ワインについての常識に通じておらず、
学ぶ欲求が出ました。
よって、グリモ・ドゥ・ラ・レニエールとブリヤ=サヴァランが
「食通年鑑」を5年間続けて発行した。
発売と同時に即完売になり、何度も再販されるような大成功を収めた。
次々に料理人達がレストランを開業して、大金持ちとなっていった。
1789年までに100件無かったが、1803年には、5、6倍になっていると、
「食通年鑑」の創刊号で書かれたそうです。
50年後、レストランの数が1400件以上にのぼるという調査結果がでたそうです。
食通年鑑が発行される
革命による新興金持ちが登場してくると、レストランが
成金達の社交の場として利用されるようになりました。
ただ問題が有りました。元々、貴族ではないので、
貴族社会の美食文化や、料理、ワインについての常識に通じておらず、
学ぶ欲求が出ました。
よって、グリモ・ドゥ・ラ・レニエールとブリヤ=サヴァランが
「食通年鑑」を5年間続けて発行した。
発売と同時に即完売になり、何度も再販されるような大成功を収めた。
2012年3月22日木曜日
フランス料理の歴史 ~パリ、最初のカフェ。そして、流行。
フランス料理の歴史 ~パリ、最初のカフェ。そして、流行。
カフェ café (仏) 発音 kafe カフェ *パリ周辺で キャフェ
①コーヒー
②コーヒーなどを出す飲食店
喫茶したり、食事したり、新聞を読んだり、読書したり、談笑したりする社交場となっている。
世界各国、コーヒーの提供場所のコーヒー・ハウス、カフェ、カフェーなどは近代、知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集う場所として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。
フランチェスコ・カペッリ(Francesco Capelli)通称「プロコピオ」(Procopio)
シチリア、パレルモ出身
1674年ルイ14世、17世紀末 、彼は、貴族と才人達のための場所として、 パリ最初のカフェ をトゥールノン通り「カフェ・プロコープ」を開いた。
10年後、1684年フォセ・サン・ジェルマン通り(現在のランシエンヌ・コメディ通り)エトワール球技場の向かいに店を移転させました。
この頃は、殆ど家に閉じ込められていた女性達がこのカフェ「カフェ・プロコープ」への出入りだけ認められていた。この時代においては非常に斬新なことである。 カフェには女性客がいるということによって、パリ中の注目の場所となっていった。
また、このカフェと言う場所で出されるものも最先端をいっている。
今でこそ、ごく当たり前ではあるが、当時としては珍しかったり、流行の飲み物だったりする。
コーヒー 、紅茶、チョコレート、 甘いリキュール、 シロップ、 菓子、果物の砂糖漬け、冷たい飲み物、ソルベ sorbet(仏語)(英語シャーベット)が出されていた。
*当時、ソルベのスペルはアラビア語のshorbetと書かれていた。
電気も冷凍・冷蔵庫も無い時代に氷やシャーベットを出していたことは驚きです。
ラ・カンティーヌという人物がその方法を解説している。
氷に塩を加えて、上にリキュールをいれた容器を置くと氷らせることができる。
この方法で、オフィシエ・ド・ブーシュ(Officier de bouche 食膳係)は、冷菓、人工雪を真夏でも作り出した。
*貯蔵庫「グラシエール」と呼ばれるもの。
真冬に、深い大きな穴の中に氷をしまって石、土で覆い塞いでおくと真夏まで貯蔵できる。
カフェ成功の理由は?
「カフェ・プロコープ」 は名実ともに、初の文学カフェとなり、
文学・思想家達の集いの場であった。
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、モンテスキュー、ルソー、モンマルテルなどが来店していた。
文学カフェに於いて、彼らが情報、意見交換をすることによって、
世界について考え、君主制を倒すことになる革命思想を芽生えさせることとなっていきました。
1721年、モンテスキューがこう残しているそうです。
「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。
なぜなら、ここに集まっている人々は頭に酷く血が上っている。
居酒屋で酔っ払わさせておくほうがずっとましだ。
少なくても、酒に酔っ払っても自分にしか害を及ぼさない。
しかし、カフェで議論に酔っぱらった連中は、
国の将来にとって危険なものとなる。」
カフェ café (仏) 発音 kafe カフェ *パリ周辺で キャフェ
①コーヒー
②コーヒーなどを出す飲食店
喫茶したり、食事したり、新聞を読んだり、読書したり、談笑したりする社交場となっている。
世界各国、コーヒーの提供場所のコーヒー・ハウス、カフェ、カフェーなどは近代、知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集う場所として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。
フランチェスコ・カペッリ(Francesco Capelli)通称「プロコピオ」(Procopio)
シチリア、パレルモ出身
1674年ルイ14世、17世紀末 、彼は、貴族と才人達のための場所として、 パリ最初のカフェ をトゥールノン通り「カフェ・プロコープ」を開いた。
10年後、1684年フォセ・サン・ジェルマン通り(現在のランシエンヌ・コメディ通り)エトワール球技場の向かいに店を移転させました。
この頃は、殆ど家に閉じ込められていた女性達がこのカフェ「カフェ・プロコープ」への出入りだけ認められていた。この時代においては非常に斬新なことである。 カフェには女性客がいるということによって、パリ中の注目の場所となっていった。
また、このカフェと言う場所で出されるものも最先端をいっている。
今でこそ、ごく当たり前ではあるが、当時としては珍しかったり、流行の飲み物だったりする。
コーヒー 、紅茶、チョコレート、 甘いリキュール、 シロップ、 菓子、果物の砂糖漬け、冷たい飲み物、ソルベ sorbet(仏語)(英語シャーベット)が出されていた。
*当時、ソルベのスペルはアラビア語のshorbetと書かれていた。
電気も冷凍・冷蔵庫も無い時代に氷やシャーベットを出していたことは驚きです。
ラ・カンティーヌという人物がその方法を解説している。
氷に塩を加えて、上にリキュールをいれた容器を置くと氷らせることができる。
この方法で、オフィシエ・ド・ブーシュ(Officier de bouche 食膳係)は、冷菓、人工雪を真夏でも作り出した。
*貯蔵庫「グラシエール」と呼ばれるもの。
真冬に、深い大きな穴の中に氷をしまって石、土で覆い塞いでおくと真夏まで貯蔵できる。
カフェ成功の理由は?
プロコピオ。彼にはインテリアと優雅なセンスがあり、
店の大理石の丸テーブル 、水晶のシャンデリア、大鏡と豪華さが
エリート達を虜にしておりました。
*ルイ14世がフランスのリュイリーに鏡の工場を開いて大鏡を生産しょうとしていました。
とてもアイデアマンだったと思われる。
最先端の流行の飲み物、食べ物を出していた。
カフェの店内にニュースを貼り出したことによって、
話題、情報交換、議論が盛んに行われる場所となっていった。
「カフェ・プロコープ」 の近くに劇場があり、芝居終了後には、作家、俳優が、芝居の観客、貴族、ブルジョワの金持ち達で賑わいを見せていた。
カフェは、パリ中の熱狂と化していき、1721年には、パリで300軒近い多様なカフェがあった。
18世紀末、総裁政治時代は2000件を超えた。
店の大理石の丸テーブル 、水晶のシャンデリア、大鏡と豪華さが
エリート達を虜にしておりました。
*ルイ14世がフランスのリュイリーに鏡の工場を開いて大鏡を生産しょうとしていました。
とてもアイデアマンだったと思われる。
最先端の流行の飲み物、食べ物を出していた。
カフェの店内にニュースを貼り出したことによって、
話題、情報交換、議論が盛んに行われる場所となっていった。
「カフェ・プロコープ」 の近くに劇場があり、芝居終了後には、作家、俳優が、芝居の観客、貴族、ブルジョワの金持ち達で賑わいを見せていた。
カフェは、パリ中の熱狂と化していき、1721年には、パリで300軒近い多様なカフェがあった。
18世紀末、総裁政治時代は2000件を超えた。
「カフェ・プロコープ」 は名実ともに、初の文学カフェとなり、
文学・思想家達の集いの場であった。
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、モンテスキュー、ルソー、モンマルテルなどが来店していた。
<人物>
ヴォルテール(Voltaire, 1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家。
ヴォルテール(Voltaire, 1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家。
ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot, 1713年10月5日 - 1784年7月31日)は、フランスの啓蒙思想家・作家。
ジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert、1717年11月16日 - 1783年10月29日)は、フランスの数学者・物理学者・哲学者。百科全書派知識人の中心者。
シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689年1月18日 - 1755年2月10日)は、啓蒙期のフランスの哲学者・政治思想家である。
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。
文学カフェに於いて、彼らが情報、意見交換をすることによって、
世界について考え、君主制を倒すことになる革命思想を芽生えさせることとなっていきました。
*1702年、プロコープの所有は、ドゥビソン氏に移り、店名はシンボルとして名を残す事となりました。
大革命時代になると、ダントラン、マラー、ルジャンドル、デムーラン、ファーブル・デグランティーヌなどがカフェの常連客としていた。
<人物>
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)はフランスの革命指導者。医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。
大革命時代になると、ダントラン、マラー、ルジャンドル、デムーラン、ファーブル・デグランティーヌなどがカフェの常連客としていた。
<人物>
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)はフランスの革命指導者。医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。
アドリアン=マリ・ルジャンドル(Adrien-Marie Legendre, 1752年9月18日 - 1833年1月10日)はフランスの数学者。統計学、数論、代数学、解析学で様々な功績を残した。
カミーユ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)は革命派のジャーナリスト
1721年、モンテスキューがこう残しているそうです。
「もし私がこの国の統治者だったら、カフェなど閉めてしまうだろう。
なぜなら、ここに集まっている人々は頭に酷く血が上っている。
居酒屋で酔っ払わさせておくほうがずっとましだ。
少なくても、酒に酔っ払っても自分にしか害を及ぼさない。
しかし、カフェで議論に酔っぱらった連中は、
国の将来にとって危険なものとなる。」
フランス料理の歴史 ~レストランの始まり
旧体制下では、レストランと言えるある限りの様々な調理法で作った料理を食べさせる店はなかった。
数多くのオーベルジュ、タヴェルヌがあり、一般大衆の客層に限られていた。
オーベルジュ Auberge 宿屋兼料理屋
タヴェルヌ Taverne 居酒屋、飲み屋、料理屋
カバレ Cabaret 居酒屋 酒類を置きその場で飲ませる。時たま食事もさせる場所。
19世紀までは、あまりいい意味で使われていなかったようです。
一般庶民の社交場で、作家、詩人の集まる場所でもあった。
①キャバレー、ナイトクラブ
②居酒屋(昔19世紀頃)
当時は、ギルドが組織され食の仕事を管理されていた。
職人、商人の組合が強力に働き、ギルド内部の規制を持って、類似の商売の競合を法律で禁じて、自分たちの利益を守る。Boucher ブーシェ 牛、仔牛、羊を屠殺して売れる権利あり。
Tripier トリピエ 臓物を売る。
Chairecuitier シェルキュイティエ 豚、そのほかの肉をパテ、ソーセージーハム等の加工品にして売れる。豚の屠殺権利が無い。
Traiteur トレトゥール あらゆる肉の種類をラグーという調理法で、ソースと一緒に出すことができる。
Rôtisseur ロティスール ロティした肉はどんな肉でも売っていい。ラグーではダメ。
*ロティ 調理方法で、ローストの事。オーブンを使って熱風で蒸し焼きにしたもの。
*ラグー 調理方法で、肉の煮込み料理。煮汁はソースとして使える。
2012年2月29日水曜日
フランス料理の歴史 ~国王の給仕人
国王に料理を出すのに、
軍隊をモデルにされた組織で行われていた。
国王の食事担当官吏
侍従部長官 (最高責任者) Grand Maître de la Maison du Roi
給仕長 Maître d'Hôtel
パン職人長 Grand Panetier
飲物係長 Grand Échanson
肉切り分け長 Grand Écuyer Tranchant
肉切り分け係 Écuyer de Tranchant
給仕侍従 Gentilshommes Servants
料理長 Écuyer de Cuisine
食膳係 Officier de Cuisine
召使い Laquais
*これらは全て貴族たちで構成されていた。
貴族にとって、最高の栄誉であり、王の側で控えられることが一種の権力であった。
2012年2月21日火曜日
フランス料理の歴史 ~じゃがいも伝道師。不屈の精神の持ち主だ。
Antoine-Auguste Parmentier(1739-1813)
アントワーヌ=オーギュスト・パルマンティエ
「パパス」または「パタート」の名で呼ばれていた
南アフリカ原産のじゃがいもは、
他国に比べてフランスでは普及が遅れていた。
初めに1535年頃、スペインに伝わって、
イタリア、スイス、ドイツに伝わっていった。
しかし、フランスで受け入れられなかった。
じゃがいもの形が嫌われたり、味が薄く単品では好まれなかった。
庶民には、肉も、塩も、油も買うことが難しく
当時の一般的調理方法がフライが主流で
食の習慣を変えることが難しく、障害となっていた。
ちょうど飢餓が慢性化していた時で貧しい庶民にはパンも買えない有様だった。
その代替え食としてパルマンティエは庶民を救うべくじゃがいもの普及に一生を捧げた。
国王ルイ16世よりパリ郊外のサブロンとグルノーブルの土地賜った。
ここにじゃがいもを植えて、昼は大げさに看守の見張りをつけた。
夜にわざと警備を外してじゃがいも泥棒を見ぬふりをした。
国王は、人民の食料として役立つと分かり、
じゃがいもの花束を宴席で飾らせたり、
じゃがいものメニューを作らせ供させたりした。
王の食事を真似するようになって普及し始めた。
じゃがいも伝道師。不屈の精神の持ち主だ。
<パルマンティエの名前の付いた料理>
アッシェ・パルマンティエ(Hachis Parmentier)
フランス家庭料理で、牛挽肉とマッシュポテトの重ね焼き。
ポタージュ・パルマンティエ(Potage Parmentier)
じゃがいものクリームスープ
2012年2月20日月曜日
フランス料理の歴史 ~18世紀
フランス料理の歴史~ 18世紀
昔は朝食?今は夕食?
dîner[dine ディネ]
夕食、晩餐、正餐デジュネ déjeuner
意外ですが、元々、古くは朝の食事を意味していた。
déjeuner デジュネ(=断食をやめる)
ミサの後の午前7時に取る食事だった。
夕食はスペと呼ばれ、時代が進むと共に遅くなる。
14世紀後半 シャルル5世の頃では、午前9~10時頃だった。一日で重要な食事のひとつになっていた。
17世紀前半 ルイ13世 正午
18世紀 ルイ15世 午後2時頃
18世紀末 フランス革命後 午後5時頃
19世紀前半 ルイ・フィリップ王 午後6時頃
19世紀中盤から 午後7時頃
現在では、午後7~8時頃となった。
スペは夜食へと移動された。
18世紀は、宮廷の贅沢さが進む。
宮廷、ベルサイユの中での生活が
豪華・贅沢になるにつれて、
料理人たちは作る宮廷料理を
あたかも錬金術のような手法を用いて、
料理の質を向上していった。
それによって、フランス料理はヨーロッパの
中でも洗練さを増してゆき、
ほかの国々も追従してゆくことになった。
フランス料理の古典料理術の
基礎がこの頃出来つつあった。
18世紀の料理人は、錬金術のような探求を始める。錬金術的作業手順。「黒への作業」肉を何日か寝かせる。とか、肉をじっくり弱火で蓋をして煮込む。
「白への作業」アタールと言う錬金術用のカマドでゆっくり注意をして弱火で煮込んでゆく。
Munon ムノン 18世紀後半料理人。
18世紀フランス料理を代表する
料理書の数々を執筆した人物。
ムノン(Menon)の18世紀フランス料理文献 4種
『家庭料理』初版 1746年、
『料理長の技術』初版 1749年
『宮廷料理』初版 1755年、
『料理と健康』初版 1758年
『ブルジョワの女料理人(La Cuisinière Bourgeoise)』
(初版1746年、フランス)
チョコレートビスキュイが紹介されてる。
昔は朝食?今は夕食?
dîner[dine ディネ]
夕食、晩餐、正餐デジュネ déjeuner
意外ですが、元々、古くは朝の食事を意味していた。
déjeuner デジュネ(=断食をやめる)
ミサの後の午前7時に取る食事だった。
夕食はスペと呼ばれ、時代が進むと共に遅くなる。
14世紀後半 シャルル5世の頃では、午前9~10時頃だった。一日で重要な食事のひとつになっていた。
17世紀前半 ルイ13世 正午
18世紀 ルイ15世 午後2時頃
18世紀末 フランス革命後 午後5時頃
19世紀前半 ルイ・フィリップ王 午後6時頃
19世紀中盤から 午後7時頃
現在では、午後7~8時頃となった。
スペは夜食へと移動された。
18世紀は、宮廷の贅沢さが進む。
宮廷、ベルサイユの中での生活が
豪華・贅沢になるにつれて、
料理人たちは作る宮廷料理を
あたかも錬金術のような手法を用いて、
料理の質を向上していった。
それによって、フランス料理はヨーロッパの
中でも洗練さを増してゆき、
ほかの国々も追従してゆくことになった。
フランス料理の古典料理術の
基礎がこの頃出来つつあった。
18世紀の料理人は、錬金術のような探求を始める。錬金術的作業手順。「黒への作業」肉を何日か寝かせる。とか、肉をじっくり弱火で蓋をして煮込む。
「白への作業」アタールと言う錬金術用のカマドでゆっくり注意をして弱火で煮込んでゆく。
Munon ムノン 18世紀後半料理人。
18世紀フランス料理を代表する
料理書の数々を執筆した人物。
ムノン(Menon)の18世紀フランス料理文献 4種
『家庭料理』初版 1746年、
『料理長の技術』初版 1749年
『宮廷料理』初版 1755年、
『料理と健康』初版 1758年
『ブルジョワの女料理人(La Cuisinière Bourgeoise)』
(初版1746年、フランス)
チョコレートビスキュイが紹介されてる。
2012年2月15日水曜日
フランス料理の歴史 ~musse(ムース)、pure(ピュレ)
mousse(ムース)
泡
材料をすり潰し、生クリームや、卵白を泡立てて
混ぜ合わせて、ふんわり軽い食べ物としたモノ。
製菓が多い。
ゼラチンを混ぜ合わせて適度に固めた冷たい食べ物がある。
pure(ピュレ)
ペースト
材料をすり潰し、ペースト状にしたもの。
17世紀、全て手作業で食品をすり潰し、
ピュレやムースを完成していた。
当時、プレシューズ(17世紀の才子・才女達、趣味の婦人)の
食べ物として、支持を受けていた。
噛むという品なく、高貴ではない動作を嫌い、
口に含み飲み込むだけで済むピュレとムースが志向に合った。
*フランス文学、古典主義。
泡
材料をすり潰し、生クリームや、卵白を泡立てて
混ぜ合わせて、ふんわり軽い食べ物としたモノ。
製菓が多い。
ゼラチンを混ぜ合わせて適度に固めた冷たい食べ物がある。
pure(ピュレ)
ペースト
材料をすり潰し、ペースト状にしたもの。
17世紀、全て手作業で食品をすり潰し、
ピュレやムースを完成していた。
当時、プレシューズ(17世紀の才子・才女達、趣味の婦人)の
食べ物として、支持を受けていた。
噛むという品なく、高貴ではない動作を嫌い、
口に含み飲み込むだけで済むピュレとムースが志向に合った。
*フランス文学、古典主義。
2012年2月14日火曜日
フランス料理の歴史 ~17世紀に誕生。ラグーとソース
17世紀に誕生
ラグーとソース
ragoût
(
ラグー )
<語源> ragoûter 食欲を刺激する
煮込み、ラグー
これからソースが派生する。
細かく刻んだ肉など(ミンチ状態も有る)煮込んだ料理。
それ自体をソースとして使う使い方。
ボロネーズソース(ミートソースの原型)
か、
煮込み汁をルーで繋いでシチューのソースとする。
sauce( ソース )
<語源> ラテン語salsus 塩をした
肉汁、ソース
ジュとクーリ
jus ( ジュー)
①ジュース、絞り汁
jus d'orange(ジュー・ドラジュ)
オレンジ ジュース
jus de citron(ジュー・ド・シトロン)
レモン ジュース
jus de
légumes(ジュー・ド・レギューム)
野菜 ジュース
②肉の焼き汁(肉を焼いたときに出る汁・液体)、
煮汁(少量の水分で煮たときに出る汁・液体)
これらを
デグラッセ (
煮詰める )、
もしくは、トロミをつけて料理の
ソースとして使うことができる。
(量的には、少量のソースになる。)
jus de cuisson(ジュー ドゥ キュイッソン)
とも言う。
<参照>フランス料理の歴史 ~ソース
「煮込み料理の汁がソースになる 」
http://ameblo.jp/kaze-r1000/entry-11159487352.html
③だし汁
*量によって、呼び方が変わったりする。
jus(量的に少ない分量で取る場合)
jus de veaub ジュー・ド・ヴォー
fond(量的に大量に取る場合)
fond de veau フォン・ド・ヴォー
coulis ( クーリ )
fondをとる肉、骨に手が加わり、
野菜、香辛料、ハーブ、
シャンピニオンなどを使い、
繋ぎにパンを使用して
現代に近いものが出てきた。
2012年2月10日金曜日
フランス料理の歴史 ~素材の味がするように変わる
17世紀に入り、今まで香辛料を大量に使っていたため、
素材の味が解りずらい料理から、
素材の味を尊重するように変化が起こる。
野菜なら、キャベツの味、玉ねぎの味が感じられるよう配慮されてゆく。
料理として洗練されてゆくのです。
この頃に、ソース・エスパニョールが登場してきます。
すべてのソースの母である。
フランス料理の歴史 ~素材の味がするように変わる
フランス料理の歴史 ~素材の味がするように変わる
17世紀に入り、今まで香辛料を大量に使っていたため、
素材の味が解りずらい料理から、
素材の味を尊重するように変化が起こる。
野菜なら、キャベツの味、玉ねぎの味が感じられるよう配慮されてゆく。
料理として洗練されてゆくのです。
この頃に、ソース・エスパニョールが登場してきます。
すべてのソースの母である。
2012年2月9日木曜日
フランス料理の歴史 ~ソース
煮込み料理の汁がソースになる
煮込み料理の汁を、香辛料などで風味付けをして
パン、粉、卵黄をつなぎに使ってトロミをつけるのが一般的だった。
やがて二つの新しいやり方が登場して、
①煮詰めて汁自体の濃度を上げてトロミを作るやり方になる。
水分量を減らすと粘性が増して濃度がつく。
②ルーが発明される。
脂肪分と小麦粉を混ぜ合わせて、液体に溶かして火にかけてゆっくり混ぜながら沸かして、デンプン質を糊化させることによって濃度が付く。
ルーは、シチュー(ホワイトソースと呼ばれるものソース・ベシャメル)カレーに使われている。
2012年2月8日水曜日
フランス料理の歴史 ~香辛料の価格が下がる。17世紀
香辛料の価格が下がる。17世紀
貴族の香辛料の使い方として、
料理に高価な香辛料を惜しげもなく使用することで
一般市民との差別化を誇示し、香辛料の希少性が美食の上で重要な意味をもっていた。
高価なものを使うことによって、一般市民との差別化となってる。
しかし、市場に香辛料が溢れて供給量が勝ってくると、価格が下がり、貴族にとって高価ではなくなった香辛料の利用価値は下がっていった。
こうなってくると、料理の作り手としての変化が起こってくる。
今までは、貴族に出す料理はとにかく香辛料をふんだんに使えばよかった。
香辛料の利用価値が下がって、どのような特別な料理をつくるかが課題になった。
貴族の料理と一般市民の料理の差別化を図るため、調理法の複雑さ、料理人の知識、経験にかかってくるようになる。
2012年2月3日金曜日
フランス料理の歴史~ Olivier de Serres オリヴィエ・デュ・セール
Olivier de Serres オリヴィエ・デュ・セール(1539-1619)
1539年 ヴィヴァレ(現アルデーシュ県)のヴィルヌーヴ・ドゥ・ベール生まれ
1559年 結婚。妻がブラデルの領地を持参した。
*この地が彼の農業への研究の場となった。
1539年 ヴィヴァレ(現アルデーシュ県)のヴィルヌーヴ・ドゥ・ベール生まれ
1559年 結婚。妻がブラデルの領地を持参した。
*この地が彼の農業への研究の場となった。
1600年に、1000ページを超える有名な「農業経営論」を出版した。
1694年までに19版を重ねた。
現代農業の先駆者、指導者。
アンリ4世の命によって、養蚕の 部分を刷り増した。
収穫量を上げるために、半休、半耕の二年ごとの輪作をやめて、
土地の4/3は常に耕作させていた。
トウモロコシ、水田、ホップ、野菜、果物など精力的に研究を進めた。
1694年までに19版を重ねた。
現代農業の先駆者、指導者。
アンリ4世の命によって、養蚕の 部分を刷り増した。
収穫量を上げるために、半休、半耕の二年ごとの輪作をやめて、
土地の4/3は常に耕作させていた。
トウモロコシ、水田、ホップ、野菜、果物など精力的に研究を進めた。
2012年2月1日水曜日
フランス料理の歴史 ~新しい野菜の登場
新しい野菜の登場
16世紀に入ってから、新しい野菜がフランスへ持ち込まれた。
ヨーロッパにおいて、大航海時代の影響です。
アーティーチョーク(Artichoke) 地中海沿岸原産。
カルドン (Cardoon) キク科アザミ亜科の植物。 アーティチョークの野生種
トウモロコシ
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見して、
トウモロコシを持って帰った。
トピナンブール(キクイモ )北アメリカ原産
トマト ナス科ナス属の植物。
じゃがいも 南米アンデス山脈の高地が原産。 イタリア、スペインを経由し、フランスで栽培されるようになった。
コーヒー ヨーロッパには、16世紀に伝わって17世紀中にヨーロッパ全土に伝わる。
チョコレート クリストファー・コロンブスがスペインにカカオがもたらされた。
2012年1月31日火曜日
フランス料理の歴史 ~ルネサンス イタリアからフォークが伝わる
イタリアからフォークが伝わる
ヨーロッパ中への文明化の動きが始まったのはイタリア(主に北イタリア)で、多くの影響をもたらした。
イタリアからフランスへの食文化の影響は、料理よりもお菓子、テーブルマナーが強く影響を受けている。
イタリアからもたらされたお菓子作りの技術は、当時の政略結婚により后たちがイタリアからフランスへ行くお供に菓子職人たちを連れていった。
コンフィチュール、ゼリー、マジパン、香料入りパン、ヌガー等の技術が伝わった。
このイタリアの后たちの家は、有名なメディチ家である。
メディチ とは、「医師」、「医学」、「医薬」という意味。
ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として、実質的な支配者として君臨した。
後にトスカーナ大公国の君主になった一族。大富豪。
ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家を支援した。
1533年 カテリーナ・デ・メディチとアンリ2世
1600年 マリーア・デ・メディチとアンリ4世
フォーク、が取り入れられ、一人一人で各自の皿を使うようになる。
杯からグラスに変わった。
食べ物に直接触らないで食事をすることに食文化としての洗練さが現れてゆく。
直接、料理の中を指を突っ込んだり、食器を共有して使ったり、手でも食べていたけれど、自分の皿に取ってからの決まりになっていった。
手を洗う事が決まった。
2012年1月30日月曜日
フランス料理の歴史 ~ルネサンス テーブル用具の変化
テーブル用具の変化
食事用のテーブル・ナイフがイタリアからもたらされて変化が起きた。
以前はテーブル用具で、武器でもある短剣、短刀を使っていた習慣が、この食事用のテーブル・ナイフが登場したことによって廃れた。
一方で、宴会などで行われるデクパージュは続けられており、様式化されていった。貴族の教育の最終指南者として、 デクパージュの専門教授がおり、 当時の貴族の教養として、デクパージュで貴族教育が完了する。
左手は、フォーク、右手は長剣を使い、一切直接に肉を触らないでデクパージュを完了して、人々に振舞う。このことが貴族としての地位にふさわしい振る舞いで、帯刀貴族の一員の証とされた。
後には、デクパージュは職務として専門化してゆき、Écuyer tranchant「エキュイエ・トランシャン」(切り分ける貴族)というデクパージュを行う係の仕事となる。
一方で、宴会などで行われるデクパージュは続けられており、様式化されていった。貴族の教育の最終指南者として、 デクパージュの専門教授がおり、 当時の貴族の教養として、デクパージュで貴族教育が完了する。
左手は、フォーク、右手は長剣を使い、一切直接に肉を触らないでデクパージュを完了して、人々に振舞う。このことが貴族としての地位にふさわしい振る舞いで、帯刀貴族の一員の証とされた。
後には、デクパージュは職務として専門化してゆき、Écuyer tranchant「エキュイエ・トランシャン」(切り分ける貴族)というデクパージュを行う係の仕事となる。
2012年1月28日土曜日
フランス料理の歴史 ~ルネサンス 個人主義が台頭する
ルネサンス 個人主義が台頭する
食卓に使う器具類の種類が増えて機能が分化が進んだ。
テーブルマナーにも変化が起こる。
ほかの人と同じ杯の酒を飲む、スープ鉢の共用は良くないこととなった。
下品なマナーとして、自分の口にしたものを渡すのは禁止。
人前でのゲップは、よかったのが、次第に下品なこととみなされた。
最初は問題ではなかったことが、
テーブルマナーが定着してゆくに従って細かく正確に決められ、
洗練された形式へとなっていった。
2012年1月26日木曜日
フランス料理の歴史 ~ルネサンスとは? La Renaissance
ルネサンスとは? La Renaiussance
再生を意味するイタリア語の『リナシタ』から派生した。
ギリシアやイタリアといった、政治的にも文化的にも繁栄した国家が中心 。
イタリアは芸術、科学、社会、政治全てにおいて当時は、ヨーロッパの中心地であった。
絵画の世界でレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロが有名。
「礼儀」という言葉が登場。
人間が社会の中でなすべき行動、
外見、自分の見せ方、振る舞いなどすべての処方。
礼儀の目的とは、社会的身分の区別
「階級を上層と下層に識別する事にある」
マナーを心得ていることが上流階級の証と言う認識になってゆく。
このことが、テーブルマナーの発達の基軸となった。
再生を意味するイタリア語の『リナシタ』から派生した。
ギリシアやイタリアといった、政治的にも文化的にも繁栄した国家が中心 。
イタリアは芸術、科学、社会、政治全てにおいて当時は、ヨーロッパの中心地であった。
絵画の世界でレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロが有名。
「礼儀」という言葉が登場。
人間が社会の中でなすべき行動、
外見、自分の見せ方、振る舞いなどすべての処方。
礼儀の目的とは、社会的身分の区別
「階級を上層と下層に識別する事にある」
マナーを心得ていることが上流階級の証と言う認識になってゆく。
このことが、テーブルマナーの発達の基軸となった。
フランス料理の歴史 ~香辛料を入れる意味
大量に使われる香辛料
香辛料は高級な料理に惜しげもなく使って、食べ手の社会的地位、裕福さを表していた。
香辛料は、輸入目的が最初は医療効果があったから。
医学的か消化促進の為か大量に使われた。
ここのところは、はっきりしてない。
カレーは、香辛料の調合したもので、そのひとつずつを見てみると、漢方薬にも使われている材料です。
医食同源と言うくらいですから、無関係ではないでしょう。
ソースに油脂を使わない
これは、味的にソースに油脂を入れることは好まれていなかったようです。
経済的問題はないはずなので、入れない方がよかったのでしょう。
当時の貴族たちの仕事
狩猟か戦争の二つ。
狩猟は、貴族の特権で、他の階級には禁止をされていた。
白鳥、千鳥、孔雀、コウノトリなど大型の野鳥は、調理後、再び羽をつけられて食事の間へ出された。
2012年1月25日水曜日
フランス料理の歴史 ~ ソースはどんなの?
酸味の液体が基本。
酢、ヴェルジュ、レモン・オレンジの果汁など。
ソースには、大量の香辛料を溶かし込んでいる。
香辛料の効いた酸味の液体を、炙り焼きの肉につけてソースとしてた。
生姜、シナモン、丁字、胡椒、ナガコショウ、サフラン、ナツメグ
はちみつ、砂糖も香辛料扱いされていた。
とにかく香辛料が入っていればよかった。
ドレッシングに近いように思う。油脂は使わないが。
2012年1月23日月曜日
フランス料理の歴史 ~ 中世の加熱テクニック
中世では4つの加熱法が使われてた。
- Rôtir ロティール 炙り焼きすること。
- Poche ポシェ 十分な量のお湯で茹でること。
- Frire フリール 揚げる 。
- Braiser ブレゼ 蒸し煮 。
肉は、焼く前に茹でる。
「ヴィアンディエ(食物譜)」のルセットで、肉は火で炙る前に茹でていた。
理由は二つあり、調理技術と、衛生面の利点がある。
肉は、新しいうちに食べないで、
柔らかくする為に熟成目的で、
屠殺後8日から10日吊るして置いておく。
この時、肉の表面には、細菌が繁殖しやすく
ベタつき、味も損ねる。
衛生面でも心配である。
<肉の熟成について>
牛、豚、鶏などの肉は熟成させて食肉とする。
死後硬直中の肉は硬い。自己消化によって肉質が柔らかくうまみが増して風味のある食肉になります。これを熟成と呼びます。牛で死後硬直が約1日で、熟成期間は数日柔らかさを出すために1か月以上長期熟成を行うこともある。鶏は熟成期間が短く新しさが要求されます。
冷蔵庫のない時代に、先人が考えた工夫の賜物でしょう。
2012年1月22日日曜日
フランス料理の歴史 ~Taillevent (1310-1395)
Taillevent (1310-1395)
通称 タイユバン
Dit Guillame Tirel ギョーム・ティレル

中世末期に、最初のグランシェフが登場する。
ギョーム・ティレル 通称 タイユバン
当時の料理は口承の伝統にのっとって、親方から見習いに伝えらていた。
タイユバンは、口伝の料理を分類、体系化して、初めて書き残して本にした最初の人物。
彼の功績により14世紀末シャルル6世の食卓にのった
ルセット(Recette レシピ、料理の作り方。料理自体。)を見ることができる。
1310年頃ノルマンディ地方のポン=トーデュメールに生まれ、1395年頃没。
イブリーヌ県のエンヌモンの墓地の埋葬された。
彼が料理人として人生を送りおそらく軍役まで務めたのもフランス王の宮廷。
1326-1346年 ジャンヌ・デヴルーの料理見習いから正料理人。
はじめて歴史に現れるのは1326年、ジャンヌ・デヴルー<Janne d'Evreux>の戴冠式関連の記述である。
その時の彼はあたかも厨房の申し子であるかのようだったという。
1346-1350年
フィリップ(6世)・ド・ヴァロワ の料理人。
ドフィヌ公の館に入り1355年には料理長になっている。
ドフィヌ公はタイユヴァンにサンジェルマン・アン・レイの家を贈ったとある。
1650-1368年 王太子ノルマンディ公のエキュイエ・デュ・キュイジーヌ(料理長)
1368年から1373年まではシャルル5世に仕えた。
1368-1371年 シャルル6世のメートル・デュ・クー(総料理長)兼メートル・デュ・ギャルニゾン(守衛頭)
最後の職務については、多大な信頼を得ていたかがうかがい知れる。
料理長の範囲を大きく超えて、エシャンソヌリ(飲み物係)、パヌトリエ(パン焼き所)、
フリュイトリ(果物係)まで及び、
さらに、貴金属細工品の保管を任され、祝宴時に陳列された。
パン作り、当時日常茶飯事だった毒殺を防ぐワインの取り扱いを監督した。
タイユヴァンの「ル・ヴィアンディエ(食物譜)」
当時、ヴィアンドという言葉は、現代の肉
ル・ヴィアンディエは「料理書」とでも約すべき表題である。
フランス語で書かれた最初の料理書は、料理の改革、中でも、ソースと香辛料の重要性を説いている。
*(当時のフランス語は、数ある多くの王国の一部の国の言葉であり、一部の人々で使われていた。)
哲学者で美食家、フランソワ・ルヴェルはタイユヴァンの事を
「ガストロノミーの分野でキリスト教徒としては最初のスターである。
理論と実践を結びつけ、同時代の料理に自分の刻印を刻み、
半ば伝説的な人物、範とすべき思想家になりえたカレームやゲラールに至る
料理人の永い系譜の最初を飾る人物である」
と書いている。
タイユヴァンの集大成以後、フランスでは1
651年、ラ・ヴァレンヌ<La Varenne>による
「フランスの料理人」<Cuisinier francois>の出版まで
料理専門書は出版されていない。
タイユヴァンの名はレストランの名として使われる。
東京恵比寿のガーデンプレイスのフランス料理店
タイユヴァン=ロビュション
2004年7月末で閉店
現在、
Joel Robuchon ジョエル・ロブション
http://www.robuchon.jp/
2012年1月21日土曜日
フランス料理の歴史 ~ 皿、フォーク、ナプキンもなし。
皿、フォーク、ナプキンもなし。
14世紀までは、フランスでは各人用の皿を使っていなかった。
液体分の多い料理には鉢を使って、二人でひとつも鉢を共用した。
「メナジェ・デュ・パリ」(パリの家政の書)には、
ひとテーブルに16人がつき、「食事には八つの鉢を出した」と書かれている。
流れ出さない料理には、丸く切った厚いパン・トランショワールか、タイヨワールと呼ばれるのが皿の代わりに用意した。テーブルの道具としてナイフとスプーンがあり、フォークはまだない。
殆ど皆自分の指を使って食べた。(手掴み)
ナプキンはまだなく、会食者のほうに長く垂れ下がったテーブルクロスで指をふいてた。
(現代でも、フランス料理のレストランのテーブルクロスの端は長く垂れ下がっている。)
ナイフは、幅広の短刀や短剣で、武器と食器を共用した
。食事用のナイフはまだない。
ローストした丸一頭分の獣肉を、家の主人が長剣で客人の前で
見事な剣捌きを披露しつつ、
「料理を切り分ける。」(デクパージュという。今でも、レストランでは料理を客の目の前で切り分けるサービスがある。)
当時は騎士社会で料理の剣さばきで優れた剣の使い手であることを伺わせる演出方法だった。招いた客人に与えられる最大の栄誉が、料理の切り分けを招いた客人自身にするように奬める事。
2012年1月20日金曜日
フランス料理の歴史 ~フランス料理の原型
フランス料理の原型
現在のフランス料理の原型は、
ルネサンス期のイタリアからやってきたカトリーヌ・ド・メディシス(当時フランスの王であったアンリ2世と婚姻した)と
その専属料理人によってもたらされたと言われ、
当初は粗野であったフランス料理に変革をもたらし、
ブルボン王朝の最盛期に発達した。
それに伴い、ハプスブルク家により
、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。
また、革命以後、宮廷から職を追われた料理人たちが街角でレストランを開き始めたことから、市民の口にも入るようになった。
、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。
また、革命以後、宮廷から職を追われた料理人たちが街角でレストランを開き始めたことから、市民の口にも入るようになった。
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